2017年8月27日日曜日

俳句と漢字

先日の句会で、父母を「ちちはは」と書いた句が有りました。作者は、漢字で書くと句が固くなる、と思われたそうですが、常用漢字にある字は、基本的には漢字で書きましょう。句の外面を云々するのは一流の俳人になってから、と申します。それより、誰が読んでも分かり易い句に仕上げることが大切です。

七夕の竹が、願い事の重さでしないます。漢字で書くと「撓ふ」ですが、これはなかなか読めない。俳句愛好家にしか読めない漢字、例えば岳黙、何人の人が「だけもだ」と読めるでしょう。「六甲の嶺々を包みて岳の黙」という句が有ったとしましょう。私達は「ろっこうのーねねをつつみてーだけのもだ」と読めますが、俳句をしない人が読めるでしょうか。隠沼も然り。「こもりぬ」と読めますか。句集を上梓して先ず言われるのが「漢字が難しくて読めない」。読めて当然と思っている字が、俳句をしない人には読めない。これではいつまでたっても「高尚な趣味」と言われます。

日本人にとって、俳句は日常生活の一部であり、詠む詠まないを問わず、私達の日々の生活に溶け込んでいます。俳句は日々の生活から不断に作られる詩だと思います。楽しい時、嬉しい時、悲しい時、淋しい時、私達は先人の俳句を諳んじたり、自ら詠んだりします。いわゆる庶民の文学なのです。ですから、殊更に難しい漢字を使わず、誰にでも分かるように詠みましょう。高尚な趣味ではなく、楽しい趣味と言われたいものです。

       みちのくの伊達の郡の春田かな  風生
    

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